公開日:2022/3/5
更新日:2022/3/6, 3/11, 2023/8/2, 2024/8/17
ナマズと地震についてご紹介させていただきます。随時追加掲載を行います。 文責:野田洋一
目 次
はじめに
1.ナマズとは
2.ナマズと地震の歴史
2.1 鯰絵とは
2.2 鯰絵の起源(結びつきの始まり)
3.動物地震先行現象
4.ナマズの異常行動に関する研究
5.これからの研究
はじめに
2羽のトビが天高く円を描きながら下界を偵察し、3羽のヒバリが美声を競い合いながら戯れ、スズメたちが一本の胡桃の木を遊び場にして飛び交っている。川面では大勢のカワウたちが餌場を移るか無言の議論を交わし、サギたちは一か八かで川底を突っつき、カイツブリたちは魚雷の如く小魚に向かって突進している。水中ではコイたちが上流へ頭を揃えて訪問者を待ち侘び、川岸ではモロコやモツゴがせっかちに泳ぎ回り、ドジョウやザリガニは黙々と餌を探している。夕方になると動物たちに夜の到来を知らせるようにアブラコウモリたちがやって来る。そして、徐々に辺りが暗闇に包まれると、秋であれば虫たちの大合唱が始まるのである。著者の生まれ育った神奈川県と東京都の境を流れる多摩川の河原での光景である。高度成長期の1970年代は下水道が整備されておらず、堰堤を流れ落ちる水は巨大な洗濯機をひっくり返したような泡の山を作っていた。しかし、動物たちは人間たちの悪さを受けながらも淡々と懸命に生きる姿をみせていた。その後、下水道が普及しはじめると、上流から流れてくるゴミからコイやアユたちの姿へと変わり、動物たちにとって棲み良い環境へと変わってきたと感じるのである。時々、私は河原に行っては、鉄橋を通過する満員電車の中で、汗を流しながら職場や学校へ向かう人間たちを目にすると、同じ空間に存在するはずの動物たちと人間たちとの世界に大きな隔たりを感じるのである。そして、人間の想像を超えた領域で物事を的確かつ正確に知る能力を有している場面を目撃しては、動物たちと話をしたいと思うのである。
さて、時折、動物と人間に共通して恐れる大事件が発生する。近代文明が発達した人間社会であっても、私たちは自然の驚異に対して無力であることを、大地震や火山噴火、台風や竜巻などで被害が発生するたびに痛感させられる。特に大地震は突如襲い掛かり数分のうちに無差別に破壊し、津波の襲来は街を壊滅させてしまう。それゆえ人間たちは大地震の発生を予測したいと強く願うのである。 人間たちは大地震の予測を目指して日々研究を進めている。歴史地震、断層、メカニズム、発生パターン、地殻構造、地殻変動、地下水位、電磁気現象などの広い研究分野にまたがる。しかしながら、地震が発生する地殻内はとても不均質で不連続、応力は常に変化していることなどから地震発生に至る過程がとても複雑となっており課題が多く、現在の技術では予測は実現していない。
そのような人間たちの世界とは別に、大地震に先立ち動物たちが異常な振る舞いを見せたという報告が世界各地にて、古くは紀元前から数多く残されている。例えば、犬が悲しく泣いた、無数のミミズがはい出してきた、ナマズ、ウシ、ウマ、カラスが騒いだなどの報告である。 日本では、江戸時代の頃から「地下の大鯰が地震を起こす」を言われてきたことは有名であるが、実は地震に先立って大暴れしたナマズが目撃されたことに由来があるのではないかと考える人がいる。はたしてナマズは地震の前に暴れるのであろうか?もし暴れるのであれば地震を予測できるのではないだろうか?と誰もが思うものではないだろうか。しかし、科学的な研究が少ないためにナマズが地震の前に異常な行動をするのかの結論は得られていない。
ナマズと地震の結びつきは民俗学の分野において詳しく研究が行われている。自然科学の分野では、昭和初期(1932年)に畑井博士らによって初めて科学的な研究が行われて、1976年から開始された東京都水産試験場(現東京都島しょ農林水産総合センター)による16年間の研究へと繋がる。地震に先行する動物異常行動の研究の中ではナマズに関する研究は多いとほうだと言える。しかし、これらの詳細については一般的に広く知られていない。 そこで、そもそもナマズはどのような生き物で、どのようにして地震と結びつき、どのような研究が最新の状況を含めて行われてきたのかを整理するとともに、地震に先行する動物異常行動の研究を進めるための課題を抽出して残すことに価値があると判断した。さらに、大地震のたびにマスコミで大きく取り上げられる動物異常行動に興味を持たれる方もとても多いと思われるものの科学的な研究に取り組む人は皆無と言える現状がある。本稿が切っ掛けとなり科学的なアプローチに興味を持っていただけることを切に願うのである。
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1.ナマズとは
ナマズは穏やかな川や田んぼなどに生息しており身近な魚ではあるが夜行性ということもあって実際に見たことのある人は少ないと思う。ナマズと言えば幹線道路の大きな看板「地震災害時、一般車両通行禁止」に描かれている愛嬌のある可愛いキャラクターを思い浮かべる方も多いのではないだろうか。青色の胴体、黄色いヒレ、大きい口、ピンク色の厚めの唇、ギョロットした大きい眼、そして2本のヒゲが描かれている。本物のナマズはどうであろうか。胴体には鱗がなく、黒っぽくヌルヌルして、頭が大きくて扁平形、眼は小さくて少し背寄にある、大きな口は半開き、口の両端には2本の長いヒゲと下顎に2本の短いヒゲがある。少しグロテスクでありながら神秘的にも感じることから人を惹きつける風貌がある印象を持つのではないだろうか。ちなみに幹線道路の大きな看板のナマズのヒゲは2本しかない。近年は観賞魚としてもファンが多く、コリドラスやアメリカナマズなど様々な種類のナマズの仲間たちが楽しませてくれている。また、ナマズは縄文時代から食されていたようである。江戸時代には料理として定着して、現在でも各地に料理専門店がある。その白身には脂が乗っており美味で、刺身、蒲焼、煮付、天ぷらなどの色々なメニューが楽しめる。ナマズに関する研究は生物学的な研究だけではなく、洋の東西・古今を問わず人との関わりが深いことから民俗学、文化人類学的な研究成果も数多く存在する。実際にナマズを見てみたいという方はナマズの研究で有名な琵琶湖博物館へ足を運んでいただければと願う。
世界のナマズ
世界には約2万5千種の魚類が生息していて、ナマズ(目)に属する種類は36科で約3093種、今なお増加しているという。全魚種の1割、淡水魚の2割を占めている。中南米を中心に世界に広く分布しているが、北欧・シベリア・カナダなどの寒帯地区からオーストラリアの南部には生息していない(分布図)。体長10cm程度のコリドラス、メコン水系に生息する全体長2mで体重200kgのメコンオオナマズ、中央アジアに分布する体長5mの記録が残るヨーロッパオオナマズ、中央アフリカのコンゴ川流域に生息する逆さに遊泳するサカサナマズ、400V以上の電気を発するデンキナマズ、体長数センチであるにも関わらずピラニア以上に恐れられている獰猛なカンディルなど、ナマズの仲間たちは多様性に富んでいる。
日本のナマズ
ナマズ目36科のうち、日本ではナマズ科、ヒレナマズ科、キギ科の3科が知られている。ナマズ科では4種類が知られており、沖縄などの離島を除いて全国に広く生息するマナマズ(Silurus asotus)、琵琶湖に生息するビワコオオナマズ(Silurus biwaensis)とイワトコナマズ(Silurus lithophilus)、2018年に発見された愛知県、岐阜県、静岡県、長野県、三重県に生息するタニガワナマズ(Silurus tomodai)と分類されている。ヒレナマズ科はヒレナマズが石垣島に分布する。ギギ科はギギ、ネコギギ、ギバチ、アリアケギバチ、アカザ科のアカザが新潟から九州にかけて確認されている。
日本に生息する4種類のナマズは魚類分類学上、動物界→脊椎動物門→顎口(がっこう)上綱→魚綱(魚類)―条鰭(じょうき)綱(条鰭類) →骨鰾(こつびょう)上目→ナマズ目→ナマズ科→ナマズ属→ナマズ種と分類されている。ナマズ種はマナマズ、ビワコオオナマズとイワトコナマズ、タニガワナマズとなる。一般的にナマズとはマナマズのことである。なお、以後ナマズと示す場合はナマズ科のマナマズ(Silurus asotus)を意味する。これら4種類の特徴は、頭部が縦扁で、体には鱗がなく、感覚器官である側線が規則的に整列している。胸鰭(むなびれ)や背鰭(せびれ)は小さく硬い棘条(きょくじょう)の骨を有する。尻鰭の基底は長く尾鰭と連続する。脂鰭(あぶらびれ)はない。水から食物を選別する働きを持つ鰓(えら)に並んで付いている突起物の鰓耙(さいは)は太くて短い。喉にある歯の咽頭歯(いんとうし)は小さい。ヒゲは下顎1~2対、下顎1対ある。胃は大きくて壁は厚く、腸は4回転する。卵は球形で直径1.5~2.5mm程度、卵黄には粒状構造がある。卵膜は薄くてゼリー層が外壁を覆っている。生態は夜行性,底棲性,聴覚索餌性,肉食貧食性,濁水棲である。雑食性が強い肉食でカエル、小魚、水生昆虫、セミなどを捕食する。キュウリも食べるとも報告されている。生息環境は、水温25℃前後で行動が活発であり、20~30℃が生活適温とされている。水温10℃以下になると活動が低下する。冬季は泥中や岩の間に隠れて過ごす。
ナマズの進化は日本列島の形成と琵琶湖の形成と移動の歴史が深く関わっていると考えられている。約1330~630万年前にビワコオオナマズからナマズとイワトコナマズ・タニガワナマズの祖先が分かれ、150~100万年前にイワトコナマズとタニガワナマズが分かれたと考えられている。いわゆるふつうのナマズは本州、四国、九州に広く分布する。北海道にも分布するが天然であるかは明らかになっていない。関東以北に広がったのは江戸時代であるとされている。下流域や、湖・池などに住み、泥底を好む。国外ではアムール水系・シベリア東部から朝鮮半島西部を含む中国大陸のほぼ全域、台湾島・海南島、ベトナム北部にまで広く分布している。【日本の分布図】ヒゲは稚魚から成魚に変わる際、下顎2対から1対のヒゲに変わり、成魚では上顎と下顎1対となる。背側から側面は、暗褐色、濃黄緑色、黄褐色、腹側は黄灰色~灰白色。不規則な雲型斑紋を示すものもある。川の中・下流域や湖・池・沼などの泥底部や砂泥底部に生息する。水草やヨシ原の茂った所や岩の間の身を隠せる場所もしくは狭くて暗い場所を好む。日中は物陰に潜み、夜間に活動的になり、魚や甲殻類、貝類などを食べる。冬季はほとんど活動しない。体長は3年で50cmほどになる。1960年代は、人間による生息環境の悪化でナマズの捕獲が難しくなった時期もあったようであるが、今では数が増えて釣りでも楽しめるようになった。筆者らはナマズの研究のために捕獲を行ったことがあるが、素人でも簡単に釣れることができた。
人とナマズの歴史
ナマズは洋の東西・古今を問わず人々と深い関わりを持っている。そのため民俗学、文化人類学的な研究成果が数多く発表されている。日本ではナマズを漢字で「鯰」と書く。つくりの「念」には「ねばる」という意味があり、ヌルヌルした体に由来するという説がある。一方、中国では「鮎魚」と書く。これも、ヌルヌルしたことを表している。また、ナマズの「ナマ」はは滑らかなという意味で、「づ(ず)」は「頭(ず)」を意味すると言われている。
中国では古代からナマズは慕われていたようである。宋代(960年~1279年)に劉寀作と伝えられる「群魚戯荇」や清の時代(1644年~1912年)の李世偉の「魚藻」の絵画にナマズが描かれている。また、中国には『年年有餘』という言葉があり、「毎年余裕のある暮らしができる」と言う意味を表している。この「餘」は「魚」と同じ発音のため語呂合わせで「年年有魚」と言われ、春節には縁起の良い魚料理を食べる風習が始まったようである。古代エジプトの初期王朝時代ではナルメル王のシンボルとしてナマズの形が聖刻文字(ヒエログリフ)に用いられた。食料としてもナマズ類が60%を占めていた時もあったようである。最も古い学術的な文献としては、紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者アリストテレスによって書かれた「動物誌」と言われている。様々な生物に関してまとめられており、ナマズに関しては産卵の生態について詳しく説明されている。
参考文献:
江川紳一郎, ナマズと地震予知, 地震ジャーナル, No.12, 8-14, 1991.
前畑政善・田畑諒一, ナマズの世界へようこそ, 琵琶湖博物館ブックレット, サンライズ出版, 2020.
秋篠宮文仁・緒方喜雄・森誠一, ナマズの博覧誌,誠文堂新光社, 2016.
宮地伝三郎・川那部浩哉・水野信彦 共著, 原色日本淡水魚類図鑑, 保育社, 1976.
田崎志郎・金澤光, ナマズの養殖技術, 新魚種開発協会, 2001.
川那部浩哉監修, 前畑政善・宮本真二編,鯰, 八坂書房, 2008.
寺嶋昌代・萩生田憲昭,世界のナマズ食文化とその歴史,日本食生活学会誌, 25巻, 3号, 211-220, 2014.
滋賀県立琵琶湖博物館, 鯰―魚と文化の多様性―, 淡海文庫, 2003.
アリストテレス著,内山勝利・神崎繁・中畑正志訳, 動物誌.上, 岩波書店, 2015.
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2.ナマズと地震の歴史
2.1 鯰絵とは
オランダの人類学者であった鯰絵の先学者コルネリウス・アウエハントは1950年代に民俗学研究所の柳田國男に師事して「鯰絵」について網羅的な研究を行った。その成果である『鯰絵-民俗学的想像力の世界』(1964)が脚光を浴びて以降、「鯰絵」が広く認知された。その後も多くの研究者による研究成果が発表されている。ここでC・アウエハントによる研究成果を中心に紹介する。
今から約170年前、嘉永年間(1848-55)から安政年間(1855-60)の日本は天災や飢餓に見舞われ続けていた。大地震だけでも、嘉永小田原地震(1853,M6.5)、伊賀上野地震(1854,M7.4)、安政東海地震(1854,M8.4)、安政南海地震(1854,M8.4)、豊予海峡地震(1854,M7.4)、飛騨地震(1855,M6.8)、宮城県沖地震(1855,M7.3)、安政江戸地震(1855,M6.3)、安政八戸沖地震(1856,M7.5-8)、芸予地震 (1857,M7.3)、飛越地震(1858,M7.1)、青森県東方沖地震(1858,M7.3)、と襲われ続け「安政の大地震」とも呼ばれている。特に1854年12月23日に安政東海地震(M= 8.4)、翌日に安政南海地震(推定M= 8.4)、3日後には豊予海峡地震(推定M= 7.4)が連発した。静岡県沖の駿河湾から九州と四国の間の豊予海峡まで続く全長約800kmに及ぶ南海トラフ(プレート境界)が3日間で動いたのである。さらにその翌年の1855年11月11日(安政2年10月2日)には江戸を直下とする安政江戸地震(M=6.9)が発生したのである。被害は甚大であり、死亡者数5,000人以上、倒壊家屋14,000戸以上、数時間で江戸の広範囲を破壊したのである。
社会に混乱をもたらしたのは地震だけはなかった。1853年のペリー提督が率いる艦隊の浦賀への来航によって政治不安が最高潮となり、続けて1856年の江戸の大水害、1657年の明暦の大火、1858年のコレラの大流行、1858年から1859年の安政の大獄、1860年の桜田門外の変の勃発という江戸幕府を揺るがす大事件が多発したのである。これらの大事件によって封建制度の基盤を揺るがし江戸幕府は終焉へ向かうことになったのである。
さて、このような社会情勢の中で発生した1855年の安政江戸地震の直後に「鯰絵」(なまずえ)という錦絵(浮世絵版画)が江戸の町に大量に出回った。当時は「鯰絵」は戯画、戯画と呼ばれていた。「鯰絵」と呼ばれるようになったのは最近のようである。奇怪な鯰をモチーフとして面白おかしくパロディー化された絵や言葉で緻密で巧に構成された風刺画である。1枚で完結しているものもあれば4コマ漫画のような構成のものある。地震発生の当日から売られて5日後には380種余り、10日後には400種類にも達したとも言われている。一大ブームが巻き起こったのである。
「鯰絵」は大地震の被害状況を伝える内容ではなかった。地震が発生した10月(旧暦)は神無月、日本中の神々が島根県の出雲大社に集合する月である。集合する出雲では“神在月”と呼ばれている。普段は地震を引き起こす「鯰」を茨城県の鹿島神宮の鹿島大明神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)が剣や岩「要石」で押さえつけているのであるが、出雲へ出かけて留守にしていたことから鯰が暴れして大地震が起きてしまったという地震伝説(鯰・鹿島大明神・要石)を基本構成として描かれている。地震を起こした悪者の鯰を罵り退治する様子、富の分配の不平等や病魔に対する非難、世直しの機会を与えれてくれたとして賞賛、崇拝する様子などが皮肉を交えて笑いやユーモラスかつ遊び心満載で表現されている。中には、歌舞伎役者の登場や歌舞伎十八番のひとつである演目「暫(しばらく)」に登場する悪者の「鯰坊主」が登場するなどして巧みに表現されている。このようなことから、混迷しきった幕末を暮らしていた粋でいなせな江戸っ子たちは「鯰絵」を媒体として様々な感情が表現された鯰絵に熱狂したのである。
鯰絵の紹介
鯰絵を最初に書いたのが「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」で知られる戯作者の仮名垣魯文(1829-1894)とされている。仮名垣魯文は安政江戸地震の被害状況や逸話などをまとめたルポルタージュ「安政見聞誌」の作者でもある。また三代歌川豊国も描いていたとされている。
代表的な鯰絵をいくつか紹介する。
〇地震伝説の三要素、鯰、鹿島大明神、要石が典型的に描かれているもの。
「揺らぐとも よもや抜けじの、要石、鹿島の神の あらん限りは」
〇無差別に多くの人々の命を奪い、街を荒廃させる憎き破壊者としての表現されるもの。「ああ、ひどい鯰め、こんな目にあいて生きていながら生き恥さらず。いっそう死んだ方がいい。」
〇安政期の社会的・経済的不公平に対し、庶民が「救いの神」として崇拝し感謝しているもの。
「何とどうだ。こう揺すぶったら、ありったけ、出さずばなるまい。さあ、今までためたその金を、残らず、はきだしてしまえ。そうすると、多くの人が、喜こぶは。」「神のお留守をつけ込んで、のらくら鯰がふざけだし。後の始末を改めて、世直し、世直し、建て直し」
鯰と雷神と火神が同一化し、頭から背中にかけて大火の江戸の様子に、口から大判小判を吐き出している絵などもある。世の中の建て直し、再生といった観念が鯰絵を生み出したのである。あざけ笑い下品な冗談などで表現された鯰絵が出回ったため、幕府は販売を禁止して、版元からは版木を没収する事態にもなった。そのため版元たちは鯰絵に日付も名前も記入することはなかったという。「鯰絵」は幕末の混迷する社会と行政の中に暮らす庶民の想像力を強烈にかきたて潤いを与えるものなったのであった。
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2.2.鯰絵の起源
動物が身動きすると地震が起きるという地震神話や信仰は世界各地に古くから存在する。①世界の牛が動くと地震が起きる。②世界をとりまく、あるいは支える蛇が動くと地震が起きる。③世界魚が動くと地震が起きるなどである。地震が多く発生する地域において多く存在する。イスラム圏では牛、インド文化では蛇など地域性が反映されている。日本では魚と地震が関係する民俗信仰が底流として存在していたうえで、最終的に鯰が地震を起こすということになった。鯰伝説や神話については平安時代末期の今昔物語や熊本県阿蘇に位置する国造神社や阿蘇神社などに残されている。
このような背景から鯰・鹿島大明神・要石の地震伝説は幾多の変遷を伴って鯰に行き着いたのである。安政江戸地震に関する綴本や版画などの中に、玉を付けた龍の頭を持ちヒゲをはやす蛇が描かれたものがある。胴全体からは角のようでもあり足のようでもある突起が沢山出ており、尾は刃先のような形をしている。そして、蛇の体は日本を取り囲み、その日本は諸州の名称が記されて地図のようになっている。この龍蛇のような怪物の絵は「地震虫」(挿絵)と名付けられおり、要石、地震、鹿島大明神の地震伝説を生み出した要因のひとつとして考えられた。「地震虫」は伊豆半島の松崎村(現在は賀茂郡松崎町)の寺院が複製した鎌倉時代の1198年(建久九年)に作られた『伊勢暦』の表紙に載せられたとされたものの、これに関しては信憑性が低いと考えられている。
初めて地震と鯰が初めて結びつけられた文献は、豊臣秀吉(1536~98)の書簡であると言われている。1592年、晩年の秀吉は京都の伏見に城を築く際に京都の京都所司代に宛てに、「ふしみのふしん、なまづ大事」(伏見城の建設は、ナマズ対策をしっかりせよ)と記した書簡を送っている。皮肉なことに4年後の文禄五年(1596)の伏見地震では伏見城天守が倒壊してしまった。
俳人の松尾芭蕉(1644~94年)も地震と鯰を関連付けている。1679年(延宝六年)に出版した『江戸三吟』に、次のような連句が載っている。
大地震 つづいて龍や のぼるらん (似春)
長十丈の 鯰なりけり (桃青:芭蕉)
似春が大地震を昇竜にたとえて美化したものに対して、芭蕉(桃青)が鯰でると茶化したものと考えられている[出典未確実] 。この連句は、龍から鯰へ変化する時期を示した重要な史料と考えられた。
『塵摘問答』の1666年版に「鹿島大明神日本を巻く鯰に要打つ」という題の版画がある。蛇龍の形をしている怪物の頭が尻尾をくわえているところに鹿島大明神がせわになく釘を打つ姿を描いたものである。1662年の『大極地震記』には「揺らぐともよもや抜けじの、要石、鹿島の神のあらん限りは」の地震歌が登場する。これらから日本を取り囲む原初の大海の表現としての龍蛇から鯰へと、表象が発達したものと考えられた。
室町時代の画僧であった如拙が足利義持命で座頭屏風として描いた妙心寺退蔵院蔵の『瓢鮎図(ひょうねんず)』といものがある。この絵は瓢箪で鯰を押えるという禅問答である。これをモチーフとして猿がぬるぬるした鯰を瓢箪で押さえつけようとしている「瓢箪鯰」なる構図が、江戸後期、文化・文政期(1804-1829)の民俗絵画「大津絵十種」に残されている。この大津絵を題材とした鯰絵も存在する。
したがって十七世紀の最後数十年間に限って、鹿島大明神、要石、地震鯰の観念が絵画表象に現れ、1855年の安政江戸地震以降の鯰絵に多様な表現で再び出現するに至ったもとの推測されている。
「鯰絵」を最初に書いとされる仮名垣魯文は安政江戸地震の被害状況や逸話などをまとめた「安政見聞誌」の作者でもある。この「安政見聞誌」には地震に先立ち鯰が騒いだ証言が記録されている。「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」 安政江戸地震の3~4時間前に鯰が騒いでいたという証言である。
しかし、一体なぜ鯰が地震と結び付けられるようになったのかは釈然としていない。地震の原因に関して当時の人々も興味を持ったはずである。得体の知れない地震に対して、災害から身をまもってくれる神話などが存在する怪魚、鯰が結びついただけなのか。答えが見つからない。そこでアウエハントは民俗学的以外に東北大学の畑井らの科学的な知見からの鯰と地震に関する研究についても触れている。つまり地震に先行する鯰の異常行動が鯰伝説の生み出した要因として可能性を上げている。
また、寒川氏は講演で、琵琶湖に多く生息するナマズが地震の際に大暴れしたことで、普段は静かなナマズが暴れだす様子と突然起こる地震とには共通したイメージがあり、両者が結びついた要因として可能性を上げている。著者もその可能性を考えている。
なお、先人の地震学者のジョン・ミルン(1850-1913)、中村左衛門太郎(1891-1974)、寺田寅彦(1878-1935)、武者金吉(1891-1962)、畑井新喜司(1876-1963)、今村明恒(1870-1948)、力武常次(1921-2004)、魚類学者の末広恭雄(1904-1988)らも、地震虫や鯰絵に関して触れていることを添えておく。
参考文献:
コルネリウス・アウエハント著, 宮田登(解説), 小松和彦ほか(訳), 鯰絵-民俗的想像力の世界,せりか書房,1995.
宮田登・高田衛監修, 鯰絵―震災と日本文化, 里文出版,1995.
気谷誠, 鯰絵新考,筑波書林, 1984.
寒川 旭, 揺れる大地―日本列島の地震史.同朋社出版,1997.
北原糸子, 地震の社会史 安政大地震と民衆, 講談社, 2000.
若水俊, 江戸っ子気質と鯰絵, 若水俊, 角川学芸ブックス, 2007.
秋篠宮文仁・緒方喜雄・森誠一, ナマズの博覧誌, 誠文堂新光社, 2016.
大林太良, 神話の話, 講談社, 1979.
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